わしの日記

1997/02/02 (日)

SF『バカにつける薬』

序章


「わお! 完成したぞ!!」
博士は叫び、うっきー、と足を踏み鳴らした。そのものすごい声を聞きつけた助手のアンジェラが、びっくりして研究室に駆け込んできた。
「まぁ。博士。まるで子どものようですわ」
しかし、たしなめるそぶりを見せながらも、瞬時にアンジェラは了解していた──博士が多年をかけて、生活を捧げ、うちこんできた研究が、完成したということを!
だが、アンジェラは、最後の気遣いを……それを博士自身の口から言わせようという気遣いを、最後まで忘れなかった。
「博士、いったい、何をおよろこび?」
博士は足を止め、軽く咳払いをしてネクタイを整えた。そして言った。
「『バカにつける薬』だよ、アンジェラ」
精密な印象を与える銀のフレームの奥の瞳を、2度、3度とアンジェラはしばたたかせ、泣きそうな顔をした。
「『バカにつける薬』ができたのね、博士!」
「そうとも。人類はこれで救われるのだ、アンジェラ」
「す、すてきだわ、博士」

しかしほどなく、勤勉な博士と忠実で美しい助手は、困難な課題に直面するのだった。それは──この薬が本当に効くかどうかの人体実験ができなかったのである。博士はもちろん、研究者らしい勇気をもって、誰よりも先にそれを試した。だが、効果は現われなかった。博士はそれをアンジェラに勧めなどしないが、アンジェラは優秀な助手らしい誠実さから、自ら被験者を志願した。だが、やはり効果は認められなかった。

──それは、二人がバカではないからだろうか。
それとも、薬の効果がないからなのだろうか?

§

西暦2001年。人類はますますバカになっていた。

東西冷戦はとうの昔に終わっていたが、世界には小火器が蔓延し、いたるところで人類は殺し合い、略奪し、争い、襲いあい……そして、また反省して涙を流していた。統制のない暴力は、ある意味で、軍隊以上に危険だった。ヤクザで一番あぶないのは、組の言うことすらきかないチンピラであるのと、同じ事である。組織化された暴力というのは、一般に信じられているのとは異なり、極限においてもなお、盲目的に義務の遂行を行おうとする多数の「まじめなもの言わぬ兵士」に支えられている。「ふまじめで言うことをきかぬ兵士」が世界中で、地球上のあらゆる地域でうごめいているのが、21世紀初頭の現状であった。

一方で、そのような現状を憂う動きはもちろんあったが、それは博士に言わせれば補償的なものであった。ベトナムで戦争するだけやっておいて、その後映画を作って反省してみせるようなものである。結局、技術的手段こそ変われ、やってることは同じなのだ。人類は、そういう種なのかも知れない。同一種内の大量殺戮を繰り返し、感動と、愚行を周期的に繰り返すという後天的に得た文化的慣習によって、バランスが保たれる種なのかも知れない。……そんな絶望的な見解をとる学者、政治家も多く居た。

だが、博士は──最後まで人類を信じたかった。博士は、当初、脳の研究に携わり、ロボトミーの研究にもかかわっていたため、ある些細な誤解から、「文化的に」パージされ、その職を追われた。博士は、ケストラーの最後の著書に現われたアイデア……人類の理性的欠陥は、その脳の生理学的構造に起因する、という考えを実証し、その対策を真摯に考えた最初の科学者だったのである(その点を悪用した政治的な動きは、以前にもあった。医学技術と政治が結び付いた例は、ナチにまで溯る)。だが、その研究は、社会的に受け入れられることはなかった。世間は博士を危険人物扱いした。それだけなら、まだしも、狂人扱いまでされた……これには博士も苦笑せざるを得なかった。人類の狂気を制御する方法を研究して、狂人扱いされている自分の立場に、である。結局最後に博士はすべての研究を投げ捨て……だが、別の方向からまた取り組みはじめた。薬物的・化学的方法によって、である。

つまり、自らを滅ぼしかねない核兵器を抱えたまま迷走を続ける狂った人類を、正気に戻す手段……『バカにつける薬』の開発である。
それは、古来の夢、有史以前からの人類の叫びの集約、そして、未来への最後の希望であった。少なくとも博士はそう考えていた。

§

「ホモ・サピエンスは、これまま、これ以上先に進んではいけないのではないか?」
不意に電子顕微鏡のモニターから目をあげ、博士は自分に問うようにつぶやくことがあった。そんな時、アンジェラは、無性に悲しくなるのだった。
「そんなことを言ってはなりませんわ、博士。だって薬は完成したじゃありませんか」
「だがアンジェラ、まだこれが効くかどうかわからないんだよ」
「そうだわ、博士、日本で一番バカが集まる場所へ行って、手当たり次第飲ませてみては?」
「すばらしい、アンジェラ、名案だ! さっそくわれわれは世直しの旅に出ることにしよう。人類に正しい道を教えて歩くのだ」

汚れた白衣のままかばんに荷物を押し込んでいた博士は、今は亡き妻の写真に目をやった。持っていこうか? それとも……。博士の妻は、容姿の衰えを気にやみ、ついに、博士より先に自殺することを選んだ女だった。博士は、今でも彼女を愛していたが、その行動はいまだに解せなかった。彼女は、そんなそぶりをまったく見せなかった! それは、博士が生涯とりくんできた、人類の愚行と、不完全な理性、という問題の埒外のような気がしていた。何か、それ以上にとらえがたい、人間の精神の深淵を覗くような……博士はかぶりをふった。今は、その問題は、忘れよう。
「行こうか、アンジェラ」

そして、二人の旅が始まった。

(つづくような気がする)