わしの日記
1997/02/09 (日)
柳生十兵衛シリーズ
風雲・柳生十兵衛
剣を見つめ、自らを見詰め直す十兵衛。
そして、十兵衛はここ数週間の自分を冷静に点検する。
……。
彼がめめしくも贈った腕輪に対する、ものすげー冷てー、くの一の態度。
くそ、金損した、もっと安ものにしときゃよかった、と言いかけた十兵衛は、だが、突然頭が軽くなっていることに気づいた。あらゆる幻想が急に、風に吹き払われるかのように消えていくのがわかったのである。
いったいこの一年、拙者は何をしていたのだろうか? 十兵衛は急にわれに返ったのである。彼の頭を占めていたくの一が、急に色褪せて見えた。いや、色が褪せたと思ったのは一瞬で、次の瞬間には消えてしまっていた。
頭をがん、と殴られるような衝撃に、十兵衛は隻眼をしばたいてかぶりを振った。
「せ、拙者は間違っていたでござーる!」
感動のあまり、語尾を延ばしてしまう十兵衛であった。その滑稽な響きが気に入り、十兵衛は連呼を始めた。
「ばざーるでござーる! ザイールでござーる!」
男の叫びが柳生の屋敷に、城に、こだました。
「拙者は、間違っていたでござーる! 忍び組がどうなろうと、拙者の知ったことではないでござーる!」
悟りとは、このように突然訪れるものか。そして、何という衝撃! まるで本当に頭を殴られたように痛かった。まるで何か固いもので打撃されたような…… ん? 何気なく天井を見上げた隻眼が、きらりと光った。天井の梁が一本外れて落下し、十兵衛の頭を実際に強打していたのであった。
「な、なんというありさまだ。わしが一年間呆然として、屋敷をここまで荒れたままにしてしまったとは!」
叫び声が空気を振動させたのだろう、天井から今度は槍が2、3本落ちてきた。畳に刺さる曲者除けの槍を、十兵衛は軽くかわした。その足取りには、確かに、今までと違う、武芸者としての自信がよみがえりつつあった。
「彦左、彦左はおるかっ」
十兵衛の怒鳴り声に呼応して、今度はやかんが落ちてきた。かーん、と明るい命中音が屋敷に響いた。これを避け得なかったのは、やはり、彼らしくもなく恋に心痛めた一年間の、練習不足がたたったものか。しかし、これしきのことで意識を失う十兵衛ではない。
「いてっ。彦左衛門、おちおち昼寝もできん、ただちに組を集めて修繕させよ」
彦左衛門は、慌てて走ってきた。そして、走りながら、十兵衛が立ち直ったことを知った。そこに居るのは、虚脱して、ふてくされたあの十兵衛ではなく、精気にあふれ、ユーモアに富んだ、そして、どこか人を引き付けるさみしげで飄々とした変な癖を持った、あの、十兵衛その人だった! 瞬時に全てを知った彦左衛門は、駆けながら、感動してしまった。そして、いつもより余計に走ったのである。
「ははーっ、殿、今、爺が参りますぞ」
走りよって土下座しようとした彦左衛門は、間違って土下座しながら走ってしまい、板張りの縁側で滑走を始めてしまった。そしてそのまま、勢い余って、でんぐりがえって十兵衛にローリングソバットをお見舞いしてしまった。
どぎゃん!
「爺、悪ふざけが、うぐぅ! ……す、過ぎるぞ!」
「殿!」
もんどり打って倒れ込む十兵衛は、おそるべき怪力で、自らと逆の方向に、彦左衛門を投げ飛ばした! とっさの離れ業に、驚くべき勢いで飛行する彦左に、柱は叩き折られた。
「うおっ、屋敷が崩れるでござる!」
「殿! 爺は痛いでござる」
「彦左! 無事か!」
何がなんだかわからないまま、勢いが余って壁にぶつかって倒れた十兵衛は、受け身を取った。本人は受け身のつもりだったが、畳は十兵衛の受け身を、そのまま抜き身に受けて……すっぽり、と穴が開いて十兵衛は床下に落ちた。
「うぉ、ひどいボロ屋敷にござる!」
叫ぶと同時に柱が折れたために天井が崩れ落ちてきて、間一髪十兵衛は直撃を避けた。
と同時に、混乱は既に取り返しのつかないところまできていた。炊事場から、女たちの悲鳴がして、火の手が上がったことを十兵衛は知ったのである。
「な、なぜ、火事まで起きるかわからんが、ものども、逃げよ、逃げよ」
十兵衛はそのまま床下を進み、庭に這い出し、そこに倒れていた彦左衛門を抱えて逃げ出した。
と、離れの、道場の方角から、どごーんという爆発音が上がった。粉を吹くように白壁が飛び散るのを、目で追いながら、十兵衛は駆けた。
「なんだ、なんだ、爆撃でも食らっているのか?」
混乱はさらに広がり、地は大きく揺れ、元々、城とは名ばかりだった柳生は、大きく崩壊しつつあった。
「彦左衛門、これはいったいどうしたことか」
老人を抱えて飛ぶように走る十兵衛は尋ねたが、彦左衛門はとうに失神している。十兵衛はそれからも十往復ぐらいして、女子どもを助け出すのであった。
「いったい、どうなってんだ?」
§
忍びのものは、突如崩壊した柳生の城について刻一刻と報告を送ってきた。地震か、暴動か、訳がわからないが、これはまさに絶好の機会である。
「むふう。これは柳生の、自らの首を絞めてくれて好都合のことよ」
「ふふ」
伸びた月代を撫で回しながら、蝋燭の明かりに侍たちの翳が揺れた。それは……笑いによるものであることは明らかだった。
「十兵衛の首、貰い受ける」
槍、鎖鎌、そして長剣の三人が、ゆらりと立ち上がり、そして……蝋燭の炎が吹き消された。
(つづく可能性がある)